偉大な教祖は教団づくりに熱心ではなかった
仏陀もキリストも、教団をつくり、それを通してパワーを発揮したい(信仰を広めていきたい)とは願っていなかったと思います。
後世の人たちが、その信仰を利用して教団(教会、寺院、神社)をつくり、自分たちの思いを叶えたい、と願ったからできたものでしょう。
政治的野心家が教団をコントロールしようとした
言葉を変えれば、宗教をビジネスとして確立し、幹部たちの生活を安定・繁栄させ、さらに影響力を強め、信者たちを自分たちの思い通りにコントロールしたいと願うようになったのでしょう。そういう意味では、政治の世界とまったく構造は同じです。
鎌倉時代の宗教の本(井沢元彦『逆説の日本史 6中世神風編』小学館)を読んで感じたのは、まさにこの点です。
親鸞の本心を蓮如は封印した
浄土真宗の開祖・親鸞は、自分を教祖として捉えていなかった、信者のひとりとして、皆平等な立場にあった、というのです。そのため、「弟子は一人もいない」といったのです。
そのことを正直に書いた唯円の『歎異抄』は、浄土真宗教団の立役者・プロデューサー蓮如にとって信者コントロールのうえで、非情に都合が悪いので、この本を禁書処分にしてしまいました。僧としての戒律に縛られずに、妻子をもつことができるほうは、ちゃっかり受け継ぎました。
ついでですが、戦国時代に蓮如が浄土真宗を大教団として確立するまで、親鸞は忘れられた存在だったというのです。蓮如がいなければ、いまの日本の最大宗教団体本願寺派は存在しなかったかもしれません。
一遍も教団の確立など望んでいなかった
親鸞亡き後、庶民に熱狂的に受け入れられたのは、一遍の踊り念仏(時宗)でした。一遍も教団の確立を望んではいなかったのでしょう、死に臨んで、それまでもっていたすべての書物を焼き捨てさせました。
その後時宗は衰退し、代わりに衰退していた浄土真宗が蓮如により大躍進をとげました。
創価学会は大プロデューサー
このように教祖と呼ばれる人々は、おおむね教団づくりとその発展には関心が薄いようでした。それとは全く別の大プロデューサーが、教団をつくり発展させてきたのです。創価学会もまさにその一例でしょう。
だからなにが目的でなにが手段なのか訳がわからなくなり、選挙時期には、まったく支持しない公明党候補者なるものに投票を依頼に、拙宅を訪れたりするのです。「奥様によろしくお伝えください」「いえ、伝えません」というやりとりがあったあとは、さすがに来なくなりましたが。
「和をもって貴し」となす日本人の多くは、表面ツラは合わせながら、投票はしないということを平然とするのでしょうが(面従背絶)、不器用な私にはそれができないのです。
大プロデューサーが歴史の暗黒面をになった
何か宗教を信じる人は自戒すべきです。信仰に帰依しているのか、教団(教会)に帰依しているのかを。後者に帰依すると極端な話、異端裁判、魔女迫害、宗教戦争などの暗い歴史に思いを寄せざるをえません。そんな事態をキリストが望んだはずがないのですから。
明治維新の「廃仏毀釈」も、神道を天皇制の国家宗教に利用しようと企んだ維新政府に、神道の神官たちが悪乗りしたという事実を押さえなければなりません。
私の魂の宗教
ところでわたし自身は、熱心なある宗教の信者です。その宗教とは、つぎのような「魂の宗教」です。
❶人間の本質は、永遠不滅の魂です。
❷死んだら(肉体が滅びたら)魂は、自分の波長にあったあの世に移行します。
❸魂の成長が十分で、もうこの世に生まれ変わる必要がなくなれば、あの世に留まります。
❹あの世では最終目標(創造の神との一体化)に向け、魂の成長の旅を続けます。
❺魂の成長が不十分ならば、再びこの世に生まれ変わり、魂の修行をくり返します。
結論として人間は、この世でもあの世でも、永遠の旅人なのですね。
私にとっての教団は、質の良い(本物の)スピリチュアル系の本です。
もしその手の教団(教会)があっても、けっして所属はしませんし、関心ももちません。教団の政治的野心にまきこまれ、世俗的愚物の手足にされてはたまりませんから。