太平洋戦争五つの誤算④ 「戦陣訓」のリスクはまだつきまとっている

条約無視の「戦陣訓」の制定

奥宮正武氏のいう『太平洋戦争 五つの誤算』(朝日ソノラマ)とは、以下の5つです。①についてはすでにご説明しました。②については、当り前すぎてこれという目新しさがないのでパスし、今日は「③条約無視の「戦陣訓」の制定」についてコメントしたいと思います。

①拙速な戦争準備での開戦

 

②総合戦力発揮への努力の不足

 

③条約無視の「戦陣訓」の制定

 

④大陸作戦偏重の陸軍軍備

 

⑤航空戦力誤信の海軍作戦

「戦陣訓」成立の経緯

太平洋戦争についての大きな疑問は、なぜあれだけ多くの軍人や民間人が、敵が迫るなかで勝機なしと認めた場合、降伏せず自死していったのかという点です。

それに対する大きな理由の一つが、「戦陣訓」の存在だったのでしょう。その成立の経緯はつぎの通りです。

昭和15年頃から、国際情勢の変化が予想されていたことから、陸軍の首脳部では、戦場における軍人のあり方を示す方策がねられていた。その結果、つくられたのが、「戦陣訓」であった。

 

それの起草に当たった最高の責任者は、教育総監・山田乙三大将で、同大将を直接に補佐したのは教育総監部本部長・今村均中将であった。そして、それは昭和16年1月8日、陸軍大臣・東條英機大将によって、全陸軍に示達された。

死をいとわない覚悟を促す

ああやはり、「陸軍」と「東條英機」というキーワードが目につきます。このなかで、「死を恐れず戦い、敵に降伏せず、自死を促す」文言をぬき書きしてみます(一部、現代漢字・かなづかい、ひらがな書きに変えてあります)。

❶命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実をあぐるもの、実にわが軍人精神の精華なり。(本訓 其の一 第三 軍紀)

 

❷死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。(本訓 其の二 第七 死生観)

 

❸恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、いよいよ奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ。(本訓 其の二 第八 名を惜しむ)

 

❹後顧の憂いを絶ちてひたすら奉公の道に励み、常に身辺を整えて死後を清くするの嗜(たしなみ)を肝要とす。屍(しかばね)を戦野に曝(さら)すはもとより軍人の覚悟なり。たとえ遺骨の還らざることあるも、あえて意とせざるようかねて家人に含め置くべし。(本訓 其の三 第二 戦陣の嗜 二)

最後につぎのように書かれています。

陸訓第一号

 

本書を戦陣道徳昂揚の資に供すべし

 

昭和16年1月8日

 

陸軍大臣 東條英機

「戦陣訓」はやはり自殺を促した

このため奥宮氏は、つぎのように述懐しています。

「戦陣訓」の「捕虜になってはならない」という部分だけが強く印象づけられ、ほとんどの将兵は、万一捕虜になった場合には、自殺すること以外は教えられていなかった。

1929(昭和4)年7月に、ジュネーブで48カ国によって「捕虜の待遇に関する条約」が調印されました。日本はこの条約に調印はしましたが、批准はしませんでした。そのことが、12年後に「戦陣訓」が制定された一因となりました。

「戦陣訓」は作戦を硬直化させた

奥宮氏はつぎのように述懐しています。

「戦陣訓」は、わが陸海軍に見えない障壁をつくって、作戦指導者たちの手をしばるとともに、第一線部隊の将兵の血を不当に流させた。

戦後も続く「戦陣訓」のリスク

「戦陣訓」を支える伝統的な自己犠牲、滅私奉公の精神は、戦後も連綿と日本人の心象光景として残り続け、企業戦士、男社会・女性差別、過労死、休日出勤・残業をいとわない精神として残り続けているように思います

私たちにとって警戒すべきことは、「戦陣訓」が先祖返りして甦ること、またその素地が十分あることです。そうなるとまた負のスパイラルに落ちこむリスクがあること、人間性重視の風土が失われてしまうこと、戦争に巻きこまれることも大いにありえること、そういったことを教訓として留意しましょう。

電通の「鬼の十則」に見る危険性

たとえば電通という会社の「鬼の十則」の第5則などにその危険な芽はありました。

5.取り組んだら放すな。殺されても放すな、目的完遂までは……。

危険は意外に身の回りまで、知らない間にひたひたと押し寄せているものです。ふだんから、十分注意を怠らないでいただきたいものです。気づいたらもうすでに遅かったということだけはないように。