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リンカーンの人種差別発言

南北戦争(1861年4月~1865年4月)は、アメリカ合衆国と南部連合との間で闘われた国内戦です。双方あわせて62万人(北軍36万人、南軍26万人)という戦死者を出した悲惨な戦いでした。

戦争の直接のきっかけは、新たに開拓された西部にも奴隷制を拡張しようとする動きがあり、これに反対するリンカーンが1860年に大統領に当選したことでした。

戦争中の1863年1月、リンカーンは奴隷解放宣言を出しました。合衆国側の勝利により、戦後奴隷解放が法的には実現しましたが、黒人の人道的・人権的立場は放置され、なし崩し的に差別制度が存続してしまいました。

戦後、南部を市場に組みこんだ産業資本主義は、飛躍的に発展しました。この戦争の本当の仕掛け人は、西部市場や南部市場を狙っていた産業資本主義であり、市場拡大、さらなる利益追求をした結果ではなかったでしょうか。

ですから合衆国(北)やリンカーンの真のねらいはそこにあり、奴隷解放ではなかったものと思われます。その証拠が、つぎのリンカーンの発言に露骨なほど現れています。

ブレンダ・E・スティーヴンソンの『奴隷制の歴史』(ちくま学芸文庫、所 康弘・訳)から引用します。このとき(1858年)、リンカーンはまだ大統領ではなく、公の場で有権者に向けた選挙演説での発言です。

白人と黒人の人種間には、物理的な違いがあり、この両人種が、社会的・政治的に、平等な条件で共存することは、永久に不可能であると確信している。

 

そして共存できない以上、両人種がともに暮らしている間は、お互いの立場や身分に、優劣をつけなければならない。

 

私は、ほかの誰よりも、白人に優位な立場を与えることに賛同する。

いやはやなんとも、南部の差別主義者のような過激な発言に聞えます。ここで言う「物理的な違い」とは、原文が”physical differences”であれば、「肉体の機能上の違い」と訳せばわかりやすいのではないでしょうか。

つまり、黒人は単純肉体労働に適した肉体機能をもっているが、白人はそうではないと言いたかったのではないでしょうか、リンカーンは。

そんな立場や身分に、なぜ優劣をつけなければならないのか、その論理の飛躍に私はついて行けません。ここは今後もっと研究しなくてはなりません。

しかしリンカーンの演説の対象は、おそらく大多数が白人有権者なので、その人たちの権益を守るぞ、ということを強調したかったのではないかと想像します。

こうしてみると、少なくともこの時点では、リンカーンは奴隷制度下にある黒人に人道的・倫理的に接していないし、同情もしていないように思われます。

そのリンカーン自身の本音・信念もあり、その後の後継大統領も代々黒人の人権や地位向上に真剣に取り組まなかったので、その後長く黒人の立場・環境は辛いものとなりました。

これら一連のアメリカの事例は、人種間の差別をなくしていくうえで、貴重な歴史的体験とも言えるでしょう。活かしていかない手はありません。

工場生産管理の極意

お世話になったクライエントM社の恩人A氏が69歳の若さで亡くなりました。先日お通夜に伺い、生前のご恩をしのびました。

その深夜、私はつぎのようなリアルな夢を見ました。場面だけではなく、自分の言った言葉のニュアンスまで、はっきりと覚えています。

・M社ではなく、どういうわけかK社の工場で、その幹部たちと、私の上司I氏・大先輩T氏の前で、私が大演説をぶっている。

 

・もちろん私は出過ぎて生意気に思われないよう、上司・先輩に忖度しながら話をしている。

 

・工場の幹部たちは苦笑いしながらも、おおむね賛同していただいている。

このような場面のなかで、私は自分でも感心するほどの、工場の工程管理の蘊蓄(うんちく)・極意を語っていました。目覚めてからも、なるほどその通りだと、納得感のある話でした。

話したその通りはさすがに思い出せませんが、少し脚色して物語化してみると、だいたいつぎのような話でした。

①工場は納期に追われている。納期遅れを出すことはできない。

そのため、安全策を講じることになる。そのよくある対策が、「安全在庫」をもつことだ。

 

②そのため、レベルの低い工場ほど、「材料在庫」や「仕掛品在庫」を潤沢にもちたがる。

あればあるほど、いざというときに、「納期遅れ」を出さずにすみ、自分たちの「責任」を追及されるリスクもない。

 

③しかしこれらの「安全在庫」は、麻薬性のある甘いアンコまみれの体質をつくってしまう。

知らない間に、財務の健全性は損なわれて、脆弱な企業体質となってしまう。

 

④これに果敢に挑戦したのがトヨタであった。納期を守りながら、「安全在庫」(アンコ)をどんどん削り落としていった。

もちろんそうしないと企業がもたないという財務的な危機感もあった。

 

⑤そしてトヨタでは、「在庫は罪庫(つみのこ)」という全社的な合意・信念が生まれ、ギリギリの最小在庫でも納期は守れる、という「トヨタ生産方式TPS]が確立していった。

 

⑥いやしくも日本の工場の幹部・管理者で、この事実・真実性を知らないとか、否定できる人はいないはずである。だれもが知っている「常識」である。

 

⑦しかしいざ、自分たちがそれを実行するとなると、二の足、三の足を踏むのである。

「ウチはトヨタじゃない」という聞きあきた言い訳とともに。

「わかっちゃいるけど、踏み切れない」のである。踏み切る勇気をもてないのである。トップを含めて。

 

⑧もし本気で工場改革を通して、財務的にもエクセレント・カンパニーをめざすならば、この「在庫をもたないで納期も守る」という、待ったなしのしんどい生産方式を採用せざるをえない。

とまあ、こんな大演説を、私は夢のなかでかましていたわけです。今思い返してみても、その正しさに我ながら打たれます。その二律背反の困難な課題解決のために、我々コンサルタントの出番があるわけです。

亡くなられたA氏の霊が、私の夢を刺激していただいたにちがいありません。ご冥福をお祈りいたします。ありがとうございました。天国でゆっくりと幸せにお過ごしください。

長津田・爆弾庫・御幸通り・こどもの国

横浜長津田小学校の側を歩いていたら、知らない老人が話しかけてきました。

「ここ御幸(みゆき)通りっていうの知ってるかい?」

 

「戦前この近くに爆弾庫があって、そこに天皇が視察に行くとき、この道を通ったんだよ」

 

「だからこの道と、大山街道の一部も、御幸通りっていうんだよ」

 

「爆弾庫から爆弾を出して、ここの長津田駅から列車で運んでいった」

 

「戦後、戦争のイメージ一新のため天皇が提案し、そこがこどもの国になった」

 

「今こどもの国の若い守衛に訊いても、爆弾庫だったなんてしらないさあ」

 

「この長津田小学校はかつて古い木造建屋だったんだけど、火事で2回焼けた」

 

「それを聞いた天皇は、鉄筋コンクリート造りを提案し、そうなったんだよ」

 

「俺んちはこの近くにあって、オヤジは腕のいい大工だった」

 

「木材は日陰で乾燥させたので、そらずにまっすぐだった。いい仕事をしたよ」

 

「家じゃ耳の悪いばあさん(妻)相手で面白くないから、こうして出歩いているんだ」

昼の暑いさなか、そのSさんと僕は、歩道で30分も立話をしてしまいました。ほとんどSさんが一方的にしゃべりまくったのですが。

Sさんの話を聞いて、僕はつぎのように思いました。

①世の中にはいろいろな「語り部」がいるが、このような地域版も貴重だ。

 

②老人はヒマを持て余しているので、歴史などを語るという地域貢献に参画できないか。

 

③僕はシャイなので、知らない人に話しかけることが苦手だ。

Sさんのように気楽に声かけできれば、人生の幅が広がっただろうなあ。

物怖じしないうらやましい性格だ。

 

親しい人との死後の関係

私がもっとも尊敬し、信頼する霊能力者が、ルドルフ・シュタイナー(Rudolf Steiner,1861-1925)です。

この世でとくに親しい関係を築いた人たち同士は、死後どのようになるのかを、シュタイナーはつぎのように述べています(『神秘学概論』ちくま学芸文庫)。

①この世で深く結ばれあった人たちは、霊界においても再会し、その結びつきを継続する。

 

②つまり死後は、この世にいたときよりも、はるかに深く結びつく

 

③なぜなら、霊となった人たち同士は、互いに相手の内部を通して結びつきをあらわすからである。

 

④そして、二人の間でおられた絆は、つぎの人生においても、その二人を再び結びつける

この世で会う人のなかには、関係が深まって成熟し、あの世でもまた人生をともにしたいと、心から願うような人と、その正反対の、できたらすれ違いたくもないくらいのいとわしい人とに分かれてしまいます。

前者とは、また再会し、つぎの人生もともにできるという確信を深められましたし、後者も反面教師として、自分を鍛えてくれる何らかの役割を果たしてくれているのだと思います。自己の鏡として。

あの世では、前者や波長の合う人(霊)たちに取り囲まれますので、後者とのお付き合いは、この世だけの独特な人格錬磨機能といえます。その意味では貴重なのです。

そしてこの世でつくったカルマ(運命)の改善については、つぎのように述べています。

①死後人間の魂は、浄化の時期を通過し、前世に行った行為が、人格の発展を妨げているのを体験する。

 

②反省材料を提供してくれるという意味で、この世で体験することのすべてが、有意義であり、真実である。

 

③これを体験した人の心の中に、その行為の結果を改善したいという衝動が生み出される。

 

④この衝動は、新しい人生(来世)のなかに持ちこまれる

 

⑤その改善を可能にする場所・環境に身を置こうとするように導かれる。

 

⑥したがって、このような輪廻転生だけが、この世の今の人間の生活を、どんな角度から考察したときも、納得のいくように説明してくれる。

これらの霊的事実は、とくに目新しいものではありません。真の実力がある霊能力者たちはみな、同じことを言っています。私にとっては、読むたびに確信を深めていくだけです。

そしてこのような霊的な認識があるがゆえに、あの世でよりよく生きるためには、この世で何をすべきかの実行課題が浮かび上がってくるのです。

逆に言うと、霊的な認識もなく、この世だけ的な刹那的意識で終始してしまうのは、貴重な人生の無駄遣いです。この霊的認識については、科学的なevidenceはありません。信じるかどうかだけです。ですからある意味、「宗教的」なのかもしれません。

このような読書経験を経て、皆様の霊的認識が深まり、有意義な人生航路に役立つことがあれば幸いだと思います。

太平洋戦争五つの誤算④ 「戦陣訓」のリスクはまだつきまとっている

条約無視の「戦陣訓」の制定

奥宮正武氏のいう『太平洋戦争 五つの誤算』(朝日ソノラマ)とは、以下の5つです。①についてはすでにご説明しました。②については、当り前すぎてこれという目新しさがないのでパスし、今日は「③条約無視の「戦陣訓」の制定」についてコメントしたいと思います。

①拙速な戦争準備での開戦

 

②総合戦力発揮への努力の不足

 

③条約無視の「戦陣訓」の制定

 

④大陸作戦偏重の陸軍軍備

 

⑤航空戦力誤信の海軍作戦

「戦陣訓」成立の経緯

太平洋戦争についての大きな疑問は、なぜあれだけ多くの軍人や民間人が、敵が迫るなかで勝機なしと認めた場合、降伏せず自死していったのかという点です。

それに対する大きな理由の一つが、「戦陣訓」の存在だったのでしょう。その成立の経緯はつぎの通りです。

昭和15年頃から、国際情勢の変化が予想されていたことから、陸軍の首脳部では、戦場における軍人のあり方を示す方策がねられていた。その結果、つくられたのが、「戦陣訓」であった。

 

それの起草に当たった最高の責任者は、教育総監・山田乙三大将で、同大将を直接に補佐したのは教育総監部本部長・今村均中将であった。そして、それは昭和16年1月8日、陸軍大臣・東條英機大将によって、全陸軍に示達された。

死をいとわない覚悟を促す

ああやはり、「陸軍」と「東條英機」というキーワードが目につきます。このなかで、「死を恐れず戦い、敵に降伏せず、自死を促す」文言をぬき書きしてみます(一部、現代漢字・かなづかい、ひらがな書きに変えてあります)。

❶命令一下欣然として死地に投じ、黙々として献身服行の実をあぐるもの、実にわが軍人精神の精華なり。(本訓 其の一 第三 軍紀)

 

❷死生を貫くものは崇高なる献身奉公の精神なり。生死を超越し一意任務の完遂に邁進すべし。(本訓 其の二 第七 死生観)

 

❸恥を知る者は強し。常に郷党家門の面目を思い、いよいよ奮励してその期待に答うべし。生きて虜囚の辱(はずかしめ)を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ。(本訓 其の二 第八 名を惜しむ)

 

❹後顧の憂いを絶ちてひたすら奉公の道に励み、常に身辺を整えて死後を清くするの嗜(たしなみ)を肝要とす。屍(しかばね)を戦野に曝(さら)すはもとより軍人の覚悟なり。たとえ遺骨の還らざることあるも、あえて意とせざるようかねて家人に含め置くべし。(本訓 其の三 第二 戦陣の嗜 二)

最後につぎのように書かれています。

陸訓第一号

 

本書を戦陣道徳昂揚の資に供すべし

 

昭和16年1月8日

 

陸軍大臣 東條英機

「戦陣訓」はやはり自殺を促した

このため奥宮氏は、つぎのように述懐しています。

「戦陣訓」の「捕虜になってはならない」という部分だけが強く印象づけられ、ほとんどの将兵は、万一捕虜になった場合には、自殺すること以外は教えられていなかった。

1929(昭和4)年7月に、ジュネーブで48カ国によって「捕虜の待遇に関する条約」が調印されました。日本はこの条約に調印はしましたが、批准はしませんでした。そのことが、12年後に「戦陣訓」が制定された一因となりました。

「戦陣訓」は作戦を硬直化させた

奥宮氏はつぎのように述懐しています。

「戦陣訓」は、わが陸海軍に見えない障壁をつくって、作戦指導者たちの手をしばるとともに、第一線部隊の将兵の血を不当に流させた。

戦後も続く「戦陣訓」のリスク

「戦陣訓」を支える伝統的な自己犠牲、滅私奉公の精神は、戦後も連綿と日本人の心象光景として残り続け、企業戦士、男社会・女性差別、過労死、休日出勤・残業をいとわない精神として残り続けているように思います

私たちにとって警戒すべきことは、「戦陣訓」が先祖返りして甦ること、またその素地が十分あることです。そうなるとまた負のスパイラルに落ちこむリスクがあること、人間性重視の風土が失われてしまうこと、戦争に巻きこまれることも大いにありえること、そういったことを教訓として留意しましょう。

電通の「鬼の十則」に見る危険性

たとえば電通という会社の「鬼の十則」の第5則などにその危険な芽はありました。

5.取り組んだら放すな。殺されても放すな、目的完遂までは……。

危険は意外に身の回りまで、知らない間にひたひたと押し寄せているものです。ふだんから、十分注意を怠らないでいただきたいものです。気づいたらもうすでに遅かったということだけはないように。

太平洋戦争五つの誤算③ 今も合理的判断ができなくなっている

①拙速な戦争準備での開戦(続き)

体力勝負に負けるべくして負けた

国と国との戦いは、最終的には国力・体力の勝負となります。いまも続いているウクナイナ戦争は、体力的にはウクライナにとうてい勝ち目はないのですが、西側諸国の支援を得て、「西側代理としてのウクライナ」とロシアの戦いになっているので、1年以上も続けられるのです。

太平洋戦争では、日本を支援する国はなかったので、資源を他国から確保(略奪)するとの前提で孤軍奮闘しました。しかしその前提もあっけなく破綻して、国民は塗炭の苦しみに喘ぎました。

最初いきなり張り手(真珠湾攻撃)で一瞬相手をたじろがせたものの、その後は持ち前の体力に物を言わせた横綱(米軍)に、電車道で寄り倒され瀕死の重傷を負った三段目のような戦争でした。

属国でもいいという自民党支持者たち

無条件降伏後の日本は、今日まで続く”アメリカの属国扱いの国”になっています。自民党を支持するということは、”属国でもいい”ということになります。”地位協定も沖縄もそのままでいい”ということ。多くの有権者はそのことすら、まともに考えていないようです。

私の同世代の知人はつぶやきました。「自民党以外に、投票するような政党もないしなあ」。民主党政権のかつての失敗に過剰反応し、健全な二大政党による政権交代への道を閉ざすような発言です。

戦前から食糧不足であった日本

いまも日本は食糧の自給率で、先進国のなかでは最低水準(38%)に留まっています。アメリカは132%、ドイツですら86%、イタリア60%です。政治の無為無策を感じてしまうのは私だけでしょうか。

それでは太平洋戦争前は大丈夫だったのでしょうか? とんでもありません。いまは米の生産だけは自給自足できる状況ですが、当時はその米すら不足していて、毎年、ビルマから300万トン、タイから200万トン、仏印から150万トン、計650万トン輸入していました。国内の米の生産量は900万トン足らずですから、その7割も輸入米に頼っていました。主食ですらこのありさまです。

日本が満州に目を付けたのは、この食料確保と石炭・鉄鉱石を狙ってのことなのはいうまでもありません。

海外依存度の大きかった主要資源

主要資源のうち、海外依存度の大きかった物はつぎの通りです(『海軍要覧』昭和14年)。

①100%:ニッケル、綿花、羊毛、ゴム

 

②92%:石油、鉛

 

③87%:鉄鉱石

 

④74%:亜鉛

 

⑤71%:錫

 

⑥68%:マンガン

 

⑦67%:希少金属

 

⑧55%:アルミニウム

奥宮正武氏はつぎのように書いています(『太平洋戦争 五つの誤算』朝日ソノラマ)。

それらに加えて、食糧も自給できなかったので、昭和十年代のわが国は、自国の力のみでは、国家の存続すら困難な状態であった。

ゼロ戦は米国のお陰で飛んでいた

さらに加えて、わが国の誇る兵器であったゼロ戦も、実態はつぎのような情けないものでした。

ゼロ戦をつくる材料と、それに使用されていたガソリンや潤滑油のほとんどは、米国を主とする外国産のものであった。

 

ゼロ戦を飛ばせるには、オクタン価92の航空機用のガソリンが必要であったが、当時のわが国では、オクタン価87のものしかつくることができなかった。

燃料を米国に止められた日本

米国は日本に対し、つぎのような燃料輸出規制を実施しました。

①昭和14年7月:石油・ガソリンの輸出制限

 

②昭和15年9月:対日ハイオクタンガソリンの輸出制限(日本軍の仏印北部進駐を受け)

 

③昭和16年8月:石油輸出全面禁止(日本軍の仏印南部進駐を受け)

それではどうやってゼロ戦を飛ばしたのか、知っている方は教えてください。私は不思議でなりません。

このような致命的な弱点(戦争する資格・条件を持っていない)にもかかわらず、日本という国・国民は、三段目にもかかわらず横綱に戦いを挑み、予定通り惨敗し、心身共に踏みにじられてしまいました。

日米の戦力比較は子どもと大人

ダメ押しついでに、野村大使に随行した岩畔豪雄(いわくろひでお)大佐(陸軍省軍務局軍事課長、昭和16年8月帰国)が報告書にのべた戦力の日米比をご紹介します。

戦力項目 日本 米国
❶製鋼能力 1 20
❷石油生産量 1 数百
❸電力 1 6
❹飛行機生産数 1 5
❺船舶保有量 1 2
❻工務労働者数 1 5

それにもかかわらず、かれら(軍指導者)は戦争に踏み切りました。奥宮正武氏はつぎのように書いています。

自国の国力をよく認識せず、それを軽視して、不備な軍備のままで「希望的観測」の下に、わが国の命運を左右する重大な決定がなされてしまった。

希望的観測が日本をダメにする

希望的観測」これがわが国エリート指導層の最大の弱点であるようです。われわれはこれの再発防止に注力しなければなりません。

大きな献金先の電力業界に甘い自民党。なんとか彼らが希望する原発の規制を緩和してやろうと援助を惜しまない。”原発の安全神話”をつくり出し、そしてついに1990年、「長時間の全電源喪失について考慮する必要はない」という「原発安全設計審査指針」を通してしまった。その結果の惨状は、福島原発で体験したとおりです。

だから私は常々思います。自民党が大切にするものは「1に米国、2に大企業、3、4がなくて、5に官僚」だと。国民は入っていないのです。それなのに国民の多くは、こんな政党に”片想い”などして。奴らがつけあがるわけです。おーバカバカしい。自分の命は自分で守りましょうよ、最低限。

教訓②希望的観測に気をつけよ

太平洋戦争五つの誤算② 勝てない戦争をするな

①拙速な戦争準備での開戦

奥宮正武氏(1909-2007)のいう「太平洋戦争五つの誤算」は、以下の通りと前回申し上げました。その一つ一つを見ていきましょう。今日はまず「①拙速な戦争準備での開戦」からです。

①拙速な戦争準備での開戦

 

②総合戦力発揮への努力の不足

 

③条約無視の「戦陣訓」の制定

 

④大陸作戦偏重の陸軍軍備

 

⑤航空戦力誤信の海軍作戦

軍人という支配階級がやらかした戦争の犠牲者

戦争(国家間のケンカ)とは、勝つためにやるものだと思います。負けると分っていて戦争をやるバカはいません。しかしそれをやってしまったのが、太平洋戦争の日本だったということになります。

軍人を”武士”だと仮定すると、自分たちの意のままに国民という庶民を駆り立て、自分たちの意地と誇りを貫き通した支配階級、とも言えるでしょう。そのために払わされた犠牲はあまりにも巨大でした。

この戦争に動員した将兵は608万5千人で、戦死者(行方不明者を含む)は256万5千人でした。死亡率は42%です。その他にも32万6千人という負傷者を出しています。

わたしたち団塊の世代が子どものころ、主な駅には負傷した元兵士(傷痍軍人)が、アコーディオンなどを弾きながら寄付を募っていたものです。なかには足を失った松葉杖姿の人もいました。

軍人・奥宮正武の限界

奥宮正武氏の『太平洋戦争 五つの誤算』(朝日ソノラマ)は、私の信頼する愛読書ですが、エリート職業軍人であった奥宮氏はつぎのように書いています。

あの戦争の最後の1年間、戦争が続けられたことは、その間の犠牲が計り知れないほど大きかったにもかかわらず、長い目で見れば、その後のわが国のために大いに役立った、ということができるかもしれない。

ああこれが職業軍人の限界なのかなとがっかりしました。これらの「犠牲が大いに役立った」などと、どの面下げて言えるのかと。

あの東京大空襲などの日本各地への爆撃、米軍沖縄上陸作戦にともなう膨大な民間と軍人の犠牲、そして広島・長崎への原爆投下。悲惨な満州引き揚げ者の苦難なども含まれます。

結局軍人たちにはこの戦争を止められず、さんざん天皇の平和志向の意向を踏みにじりながらも、降伏宣言だけは抵抗できなかったというていたらく。

敗戦1年前にギブアップしてほしかった

私は、歴史にイフは禁物と重々知りながらも、つぎのようであったらと空想します。

太平洋戦争の第3期(昭和18年7月上旬~19年7月上旬、防戦一方)末に行われたマリアナ沖海戦(昭和19年6月19~20日)で完敗した後、ギブアップしていたならばなあと。この戦いで、日本の空母機動部隊の再建が不可能になったからです。

そうなればそもそも敗戦後いまも続く、アメリカの属国という位置づけにはならず、独立国としての尊厳を維持できていたことでしょう。いまもアメリカや米軍にはたてつけないのです。その忠実な手先が、吉田茂に始まる自民党ということになります。

ギブアップもしようがない日本のていたらく

しかしそのギブアップすることができなかった日本の事情を奥宮氏はつぎのように述べています。

❶わが国には、大戦争を行うのに適する国家機構が整備されておらず、国論を代表して、天皇を補佐できる人物がなきに等しかった。つまり大戦争を行う器量に欠けていた。

 

❷わが国は、開戦前にすでに、半ば以上も敗れていた。

 

❸長期的な定見をもたない指導者が多かった。

 

❹自国の固有の国力をよく認識せず、それを軽視して、不備な軍備のままで希望的観測の下に、わが国の運命を左右する重大な決定がなされてしまった。

 

❺わが国には、太平洋戦争のような大戦争を行う資格に欠けていた。

 

❻もともと日本軍には、太平洋戦争を有利に進めることができる能力がなかった。

よくもこんな国力、能力・器量で軍人たちは、あの大戦争をおっぱじめたものだと、あきれはてます。ここで将来的にも、我々日本人にとって、大事な教訓があります。

教訓①:勝てない戦争をするな。

これはもちろん、戦争だけではなく、ビジネスにも恋愛にも、何事にも共通する教訓です。つまり、「勝てないビジネスはするな」「勝てない恋愛はするな」ということです。人生は「勝てる戦いだけをしなさい」ということです。

それではあまりにも、現実的すぎて夢がない。理想を実現するとか、努力代をもっと認めていいのではないか、死に物狂いでやってようやく手が届くことに挑戦するのはどうなのかとか、議論が百出しそうです。

しかし私が思うのは、もっとも自分にとって大事なことは、努力しないでも(したつもりはなくても)いつの間にか手に入っています。無理な背伸びはかえって人生を暗くします。最も大切なことは、「魂の奥底の望みは、努力の如何に関わらず、必ず手に入る」ということです。

わたし自身の人生がまさにその通りでしたし、みなさんお一人お一人の人生も例外なくそうなっています。もっとも大事なことは、「魂の奥底の望みを知る]ことです。

太平洋戦争五つの誤算① 失敗の教訓から学ばない手はない

太平洋戦争 五つの誤算

太平洋戦争 五つの誤算』奥宮正武(朝日ソノラマ)を読みました。太平洋戦争の失敗を学び、そこから今後の日本を改革していく着眼点をえるうえでは、格好の良書として皆様にもご一読をお勧めします。

太平洋戦争五つの誤算 正木英昭 マサキ経営 5Sコンサルティング 見える化コンサルティング 生産管理改善

太平洋戦争の失敗と反省の書は、世の中にたくさんあり、私もそのいくつかを読んできましたが、そのなかでもこの書は、客観性と本質性において白眉となると思います。

著者・奥宮氏の最適な経歴

その決め手になるのが、著者そのものの人間性経歴筆力、とくに経歴です。奥宮正武氏の経歴は、つぎのようにうってつけのものです。ご自身も、「あの戦争の大きな流れをほぼ正しく観察できる立場にいた」と書いています。

1909(明治42)年生まれ(この年生まれは他に、大岡昇平、淀川長治、太宰治、斎藤茂吉、土門拳、上原謙、松本清張、ピーター・ドラッカー、エリア・カザンなどの人たちがいます)。1941年の太平洋戦争開始時には、32歳です。

高知県生まれ。軍人閥の多い山口や鹿児島(薩長)生まれでは、客観性に欠けたり、遠慮が先立つかもしれません。

1930(昭和5)年、海軍兵学校卒(58期)。日本が本格的におかしくなる(全面戦争のきっかけ)となったのが、翌1931(昭和6)年の満州事変ですから、それ以前に、陸軍士官学校ではなく海軍兵学校を卒業した世代は、比較的”おかしな洗脳教育”を受けないですんだかもしれません。

④奥宮正武氏の経歴は、海軍航空隊の幹部と、大本営海軍参謀(海軍中佐)を歴任し、戦後は航空自衛隊幹部となり、退役時は空将でした。

昭和17年には、つぎのような作戦に参加しました。ミッドウェイ、アリューシャン、ガダルカナル、南太平洋海戦、ウエワク攻略、ガダルカナル撤収、「い」号、中部ソロモン。

太平洋戦争の4期区分

奥宮氏は太平洋戦争を、つぎの4つの期に分けています。

❶第1期:昭和16年12月8日~17年4月9日。陸海軍連戦連勝。

 

❷第2期:昭和17年4月10日~18年6月下旬。ほぼ互角の戦い。

 

❸第3期:昭和18年7月上旬~19年7月上旬。防戦一方。

 

❹第4期:昭和19年7月上旬~20年8月15日。敗戦処理。

とくに第3期末に実質的な敗戦のきっかけとなったのは、マリアナ沖海戦(昭和19年6月19~20日)でした。日本の空母機動部隊が米空母群に完敗し、再建が不可能になったからでした。

5つの誤算とは

そして奥宮氏は、5つの誤算をつぎのようにあげています。

①拙速な戦争準備での開戦

 

②総合戦力発揮への努力の不足

 

③条約無視の「戦陣訓」の制定

 

④大陸作戦偏重の陸軍軍備

 

⑤航空戦力誤信の海軍作戦

教訓から学び日本を再建しよう

これらの誤算一つ一つをふり返り反省し、その過ちから学び、日本を真の平和・繁栄・幸福国家として再建するための糧としたいと思います(PHP組織とは無関係です)。

目指すべき目標国は、スイスやスウェーデンのような、大国ではなくても豊かで繁栄し、世界から一目置かれている存在です。これらの国は防衛軍備のほうもしっかり充実させているので、単なる平和国家とのイメージとはちがいます。守るべきものはしっかり守り、言うべきことはしっかり主張するといった姿勢です。

要は日本という国家を充実させ、世界にも貢献し、喜ばれる存在になりたいということです。この本にはそのヒントとなる逆教訓が満載です。これに学ばない手はありません。

生命の質QOLを高めて生き残れ⑦ 自分の命は自分で守れ

食事療法の重要性

前項で、「あれも食べてはダメ、これもダメ」と言い続けたので、何を食べていいかわからなくなってしまったのではないでしょうか?

もちろんがんの心配のない人は、何を食べようと自由ですが(本当は自由ではまったくありません。QOLを高めていきたいのであれば)、いったんがんになってしまった人は、食事療法の厳しい掟に従う必要があるということです。

川竹氏の食事療法

この掟は、川竹文夫氏(1946年生まれ。1990年発病した腎臓がんを克服し、NPO法人「ガンの患者学研究所」代表となる)のものが最高・最良だと思います。それはつぎのようなシンプルなものです。

①玄米菜食に徹する。

 

②玄米は一口100回噛む。

私は①のほうは、かなり忠実に実行しました。大腸がんの手術後少なくても3年くらいは。

②のほうは実行できませんでした。生来の短気な性格からか、とてもがまんできなかったからです。しかし末期がんや重篤ながんの患者さんは、これに忠実に従うことをお勧めします。

川竹氏の食事療法は、つぎの言葉に集約されています(『「ガン・治る法則」12カ条』三五館)。

玄米なら「生命のリング」の栄養素をほとんどがそれだけで摂れてしまうので、あとは、副食に野菜をちょっと摂るだけで、もうバランスが取れる。こんなに簡単なことはない。

 

だから私は、肉食べない、魚食べない、卵、牛乳、乳製品、どれも食べません。玄米と野菜だけで十分です。

私の食事療法

私は大腸がんの手術後10年を過ぎましたが、いまだに続けていることは、以下の通りです。

①基本は玄米菜食。これはずっと変わらない(1回に玄米0.3合×2回)。

 

②玄米には、15種類ほどの雑穀(あわ、ひえ、そば、麦など)を混ぜている。

 

③朝食には、生卵・ネギ入納豆をかけている。

 

④醤油漬けニンニクと酢漬けタマネギをいただく(1日1回)。

 

⑤うずらの卵をいただく(1日2個)。

 

⑥魚(あじや鮭や鯖)はほぼ毎日いただく。

 

⑦肉(牛、豚)はなるべく摂らない。3年間は鶏肉も含めて、まったく摂らなかった。

 

⑧お菓子・間食は原則摂らない。

 

⑨以前よく飲んでいた牛乳はやめた。

 

⑩3年ほど前から、1日2食(朝・晩)にしている。

煙草・飲酒は当然論外

煙草は、若いとき3年ほど吸いましたが、25歳の誕生日から今日まで、一吸いもしていません。幸い息子・娘も、”親の変な習慣”を”見て学ぶ”ことをさけられました。喫煙してもその姿を決して見せなかった私の母は賢明でした。

酒類は、もともと飲める体質ではなかったのですが、50代半ばで完全にやめ、それ以来一滴も飲んでいません。顧客と飲む機会の多い経営コンサルタントとしてはだいぶ不便ではありましたが。

末期がんから生還した人の話を聞く

がんを本気で治そうと思ったら、まず川竹さんの本を読み、それを忠実、愚直に実行されることを強くお勧めします。3年間は辛抱していただきたいのです。もちろんその後も、多少制約を緩めるだけに留めた方が賢明です。

そしてできたら「がん患者の会」に入って、末期がんからでも生還できた患者さんの体験談をじかに聞くことをお勧めします。

この体験談の会合に、医療関係者が出席すると、「信じられない」を連発するそうです。西洋医療では、”末期がんは治せない”と信じこんでいるからです。だからかれらはそもそも、末期がんから生還した人に会ったことがないのです。

とにかくがんになったら、西洋医療に殺されないよう、「自分の命は自分で守る」という大原則を徹底するしかありません。まずは身近な食事療法の実践からまいりましょう。

生命の質QOLを高めて生き残れ⑥ がんにならない食生活

がんの標準治療に見切りをつけた患者

がんの代替治療に取り組んでいるM医師の投稿記事から引用します。来院患者(64歳男性)の例です。

食道がんステージⅣで、化学療法1クール後、腫瘍は縮小した。

 

その後再度大きくなって、抗がん剤が変更となった時点で、本人が抗がん剤の副作用の辛さもあって、「免疫治療」を希望して来院した。

この患者の驚くべき食生活

M医師が問診で食生活を聞いたところ、つぎのような返事でした。

①喫煙はやめた。

 

②飲酒はへらしただけで続けている。

 

③食事は肉が好きなので、牛と豚が中心。

 

④豆腐や大豆、野菜は好きではない。

 

⑤甘い物が好きで、和菓子はよく食べる。

 

⑥牛乳を朝と昼に結構大量に飲んでいる。

 

⑦チーズは大好物で、いまでもよく食べる。

 

⑧結構塩辛い物が好きで、味噌汁は濃いめで、漬物にも醤油を入れるほど。

とんでもない主治医の無知ぶり

この患者は主治医から、体力をつけるためには、「好きなものは何でも食べてよい」と言われたとのこと。その主治医の無知さ加減にもあきれます。ふつうのがん科医のレベルの低さを痛感します。とても命を預けられません。

M医師の回答

この患者の食習慣は、すべてがん治療に不利な内容で、治療以前に食生活を改めることが必須と判断し、M医師はつぎのように答えました。

このままでは、どんな治療も効果が期待できません。

私も驚きあきれた

正直私は驚きあきれました。がんに対してこれほど無知で危険な行為をしている患者や、それを放置している主治医がいたのかと。

大腸がん手術を受けた私は、必死に勉強した結果、食生活はこの患者の正反対をやれば良いと確信しました。逆に言うと長年、このようなまちがえた食生活を続けた結果がんになったとも言えるのです。

がんに打ち勝つ食生活とは

上の患者の食生活に対して、私なりにコメントします。

①「喫煙はやめた」のは当り前。煙草は「百害あって一利なし」。頭がスッキリするというのは大ウソ。判断力・知力が落ちるので、従業員にまともに仕事をしてもらいたい経営者なら、即時社内での喫煙を禁じるべきです。

煙を吸いこむと、とくに食道ががん化しやすくなります。私の両親はともに喫煙をしていて、二人とも胃がんになりました(母は息子の私の前では一度も煙草を吸う姿を見せたことがなかったので、長い間そうとは知りませんでした)

②「飲酒はへらしただけで続けている」。なぜがんをきっかけにやめられなかったのだろうと疑います。アルコールという、人体にとっての猛毒を解毒するのに肝臓を中心とする臓器は、大きな負担を強いられます。それだけ、自己免疫力が低下させられます。

③「肉食」は御法度です。当分、鶏肉も卵も、やめた方が良いのです。

④「豆腐や大豆、野菜」は大いにとりましょう。玄米食を主食に、副食として重視します。

⑤「甘い物」はやめましょう。とくにいけないのはアイスクリームです。がんの大好物です。「果物」「おやつ」も当分やめましょう。

⑥「牛乳」は当分やめましょう。それは本来、牛の子が飲むものです。その代わりに「豆乳」ならいいでしょう。

⑦「チーズ」はやめましょう。とくに「プロセスチーズ」が身体に良くありません。ヨーグルトを含め、乳製品は当分御法度です。

⑧「辛いもの」はやめましょう。「漬物」「醤油」もなるべくやめましょう。味付けに使う、「ソース」「ケチャップ」「マユネーズ」もすべてやめましょう。

さらにつけ加えれば、練り物(かまぼこ、ちくわ)もやめましょう。ものすごい種類の添加物が入っています。パンも漂白パン(白い食パン)は御法度です。三白(白砂糖、白い塩、白米)を憎みましょう。

身体の悲鳴を受け止めよ

「それでは食べる物がなくなっちゃう。一体何を食べたらいいんだ!」と嘆く向きが多いと思われますが、がんになるということは、身体の悲鳴です。「いままでの食習慣などの生活習慣を、徹底的に根底から改めよ」という身体の奥深くからのメッセージなのです。しっかり受け止めましょう。