Column⑧ 三島由紀夫 無残な幼児期体験 MISHIMA,Yukio

三島由紀夫事件
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三島由紀夫事件が起きたのは、50年前の今日、1970年11月25日でした。
そのとき私は東京理科大学の学生で、飯田橋の学内にいました。事件現場は近くの自衛隊市ヶ谷駐屯地で、三島は切腹自殺をして45年の生涯を閉じました。

下の写真は、事件後発売された週刊誌の緊急増大号と、ポートレート写真です。三島由紀夫事件 サンデー毎日 マサキ経営 正木英昭 5Sコンサルティング 見える化コンサルティング

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結局、三島由紀夫という”不幸な人間”をつくった最大の戦犯は、祖母の平岡奈津だと思います。祖母のそのような異常な”幼児虐待”がなかったら、公威(きみたけ・本名)は”三島由紀夫”になっていなかったと信じています。
そこに的を絞って以下考察します。

祖母が孫を変態にした
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①祖母をそのような異常行為に追いこんだ直接の戦犯は、夫(祖父)の平岡平太郎だった。樺太庁長官まで出世はしたが、酒色にふけり、家事を顧みず、莫大な借金をつくり、はては性病を妻にうつしてしまった。

 

②奈津は士族の名家の出身で、17歳で平太郎に嫁ぎ、1子(父・梓)をもうけたが、夫にうつされた性病のため、それ以上子どもが産めず、一生神経痛に病む生活を送った。気の毒な、夫の犠牲者でもあった。

 

③しかしいけないのは、初孫の公威を生後49日で母から奪いとり、それから12年間(中学校に通うまで)もの長い間、自分の部屋に幽閉したことだ。それを黙認した父・梓もだらしない。いくら戦前といっても。
母親は乳母扱いで、4時間おきに乳を与えに祖母の部屋に行き、すむとすぐ追い出された。

 

④男の子の好む遊びはさせてもらえず、遊び相手も年上の女の子たちだった。つまり、実質的に「女の子」として育てられた。このことが三島に決定的なダメージをもたらした。ホモ・セクシャルにさせられてしまったのだ。

 

この祖母はなんという罪つくりの、自己中心的な存在だったことだろう。自分の心身の痛みや不幸を、孫をペットにしていやしたのだ。

 

⑤三島自身の回想。「しじゅう閉(た)て切った、病気と老いの匂ひのむせかえる祖母の病室で、その病床に床を並べて私は育てられた」(『仮面の告白』)

 

「私は悲しさをとほりこして恐ろしくなる。子供の無邪気さを無残に摘み取られて、どんなに変態に成長して行くだらう」(『椅子』)
やりきれない三島の、魂の叫びが聞こえてくるようだ。

 

⑥極楽とんぼで能天気な父・梓は息子に言った。「明朗な少年!になる気はないか。お父チャマは同年輩の少年の無邪気さをみると、何とも言えず悲しくなる」。

 

なろうと思ってなれれば、こんな簡単なことはない。なれないから苦しいのだ。
ヒステリーの母親に息子を幽閉され、なすすべもないこの父の体たらくぶり!

このようにして幼い公威は、変態にさせられ、一生その十字架を背負って生きてゆく人生しか与えられなかったのです。普通に生きることを許されなかったのです。

没後50年、ただただ三島由紀夫の、あの世でのご冥福を祈ります。